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主人は現地召集で中支へ行っていました。父は耳の聞こえないことを感じていました。
終戦を迎えました。顔が見えないと泣くので、前おんぶしてオムツとバケツを持ってみじめな思いで大阪の姑の家へ引き揚げてきました。「このような子を生んだ」と言われ、いじめが始まり悩みました。私は、「何としても子供の耳のために」と決心し、反対を押し切って大阪府立生野ろう学校へ四歳で入学させました。当時はまだ許してもらえず頼んでお願いして仮入学させてもらいました。
一歳三ヵ月の妹をおんぶして毎日、電車通学ですが、駅から学校までがまた遠い道のりでした。このときほど、「乳母車があったら」、また「保育所や寄宿舎があれば」と痛感したことはありません。当時は何もありませんでした。「苦しみも悲しみもこの子のために」と無我夢中で学校に通いました。いろいろなできごとがあり親も子も泣きました。姉はろう学校を卒業してから洋裁の道に進み、洋裁学校の校長の理解のもとで洋裁学校の先生になり、普通の人を教えていました。結婚して子供がありませんが、今は高級服オーダー(オートクチュール)の縫製をしています。過日、NHKテレビで製作した服をモデルさんが着て放映させました。「難しい仕事をよくやっている」と感心しています。
妹の方は五歳位と思いますが、風邪から中耳炎になり難聴になりました。でも学校について行っている間に何時のまにか口話を覚えていました。小学校から短大に進み栄養士の免状を取得しました。雨の日あり風の日あり、この子も精神的に辛い思いをしたと思います。よく頑張りました。
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